下戸に酒を強いるが如し

上田城は今、桜千本まつりの直前らしいので、きっともうすぐ桜が満開なのでしょうか?


第一次上田合戦と言えば、真田昌幸が徳川の大軍を迎えて上田城を守りきった話として有名で、今日の大河ドラマのメインテーマにもなっていました。
この時真田昌幸は城下を攻められている最中も家臣と囲碁を打っていたという逸話もドラマの中で使われていました。
(使わざるを得ないのですかね?)

 

この時真田昌幸は十分に城下まで徳川勢を引き付けた後、一斉に反撃を仕掛けて徳川勢を散々に破ったといいます。
更に逃げる徳川勢を苦しめたのが、徳川勢が本陣を敷いた神川対岸まで逃げようとするものの、真田勢は徳川勢が渡ろうとした神川の堰を切って、多数の兵を溺れさせたそうです。
この様を見て、この戦いに兄忠世、忠佐と共に参加していた大久保彦左衛門は、後に書いた三河物語の中で兄忠世の言葉として
「下戸に酒を強いるが如し」
と表現したそうです。

私はまだ三河物語を読んだことがないので詳細は知りませんが…。

 

大久保彦左衛門屋敷跡がある御茶ノ水駿河台にある明治大学前の坂は楽器屋さんが沢山並んでいて、今日も弦やピック等の小物を買い行きました。
そこまで行く途中、神田川沿いを歩いていたのですが、高田橋から江戸川橋までは満開の桜並木が春を彩っていました。

 

桜は一斉に咲いて一斉に散るところから、武士には潔さの象徴として好まれたようですが、いい大人がバカみたいに飲めない酒飲んで、まさしく下戸に酒を強いるが如しの宴会が公然と行われる時期ですね。
私はお酒が嫌いではなく失敗談も多いですが、飲めない酒を無理に飲んだり飲ませたりする宴会はどうかと思います。

 

お酒は節度を守って、楽しく、ムリせず頂きましょう!

…これは自分に言ってるんでしょうかね?

 

だまれ小童!

また今日も真田丸ネタです。
勘のいい人はネタバレになるかもしれないので、まだ見ていない方はご注意を。

 

室賀正武と真田信幸のやり取り、と言うか「だまれ小童!」の一言で毎回やり込められる真田信幸。
そのセリフ回しの分かりやすい面白さと、言われた時の複雑な感情が入り混じった顔(芸?)。
たった一言に込められた2人の役者の見事な無言のやりとりが面白く、毎回笑わせてもらいました。

もし私が実際にこんなことを会社の上司に毎回言われていたら、きっと泣いてしまいますが…。

 

近頃の真田丸はコメディー要素が強すぎるとも言われているようです。
確かにここ数週間は特にそんな要素が増えてきた印象があり、今日も前半はコメディー要素がかなりの尺を占めていたと思います。

 

ですが正直なところ、天正壬午の乱を真田家の視点で描く場合、展開があまりにも早く、しかも複雑なので、そもそもスピーディーに話を進める真田丸ではコメディー要素でもないとついていけなくなりそうです。

 

実際ドラマ上ではコメディー要素を取り入れること以外にも、要点を絞るために登場人物もかなり削っていて、例えば真田昌幸と同じ武田信玄の奥近習六人衆を務め、兄真田昌輝と共に信玄の両眼と賞賛され、更には武田家の駿河攻めでは昌幸と共に数々の活躍をし、後半生も真田信尹と共に蒲生家に仕え一緒に九戸攻めに参加するなど、真田兄弟とは縁が深い曽根昌世や、武田勝頼存命中は徳川家康に二度城を攻められて二度とも撃退し、武田家滅亡後は徳川方として天正壬午の乱の主導権を握る活躍。その中には、何週間か前にドラマ内で取り上げられた昌幸の母を含む国人衆の人質引渡しの取りまとめや、上杉との対陣後、南に進路を変えて徳川家と対峙することになった北条から、徳川方へ真田昌幸を寝返らせた上に小諸城付近でゲリラ戦を展開して北条軍の兵站を分断し、徳川方に有利な条件での講和に持ち込んだ依田信蕃などの重要人物を登場させないことは非常に惜しいことですが、話を分かり易くするためにはある程度仕方のない事なのかもしれません。

 

あ…。
すみません…。熱くなりすぎました…。
長くなりそうなのでこの辺で止めておきます…。

 

つまり、昨日の友は今日の敵みたいなめまぐるしい展開でも、私が混乱することなくついていけるように話を進められているのは、やはり要点を絞った上で、更にコメディー要素が上手く絡んでいるからこそのように思います。

 

それに、それだけに今日は後半のシリアスなシーンが際立ったようにも思います。

 

できればこのやりとり、今後も長く見せて欲しい所でしたが残念です。
せめて最期に一言、あのセリフを聞かせて欲しかった。

 

春分の日と桜の開花

今日は二十四節気のひとつ春分の日
この辺りから夜よりも昼の時間の方が長くなるんだとか。

 

古い文献の中には昼夜の時間が同じになるとか書いてあったりするようですが、実際には春分の日の何日か前には昼の方が長くなってるらしいです。
何でもややこしい理由がいくつかあるらしいですが、そんな難しい話はなくても、今日はかなり暖かくなり十分に春を感じられます。

 

それに、おかげさまで花粉症もひどくなってきました。
いい歳になっても、まだまだ私は洟垂れ小僧なんだから慢心するなということでしょうか…

 

春と言えば桜。
堀切菖蒲園でもソメイヨシノが咲き始めました。
昨日見た時は咲いてなかったように思うのですが、気付かなかっただけかもしれません。

 

桜の花

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真ん中らへんに咲いていますが遠くて見えない…

でもアップにすると

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画質が落ちる…

やっぱりスマホのカメラじゃ限界ありますね。

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ソメイヨシノは、開花から一週間ほどで満開になるとのことなので、来週にはこの辺り一帯の桜が見頃になるでしょう。
とは言え堀切菖蒲園内にはソメイヨシノはほとんどありません。
近くなら、堀切四季の道という道が綾瀬川から曳船親水公園近くまで続いていて、そのほとんどの場所が桜並木になっているので、こっちのほうが楽しめそうです。

 

ただここは近所の人が常時利用する生活道路なので、ブルーシート敷いてどんちゃん騒ぎするような花を見ない花見には向きません。近くを通る時に時間に余裕があるのなら、少し遠回りして桜のトンネルの下を歩きたい。そんな場所です。

 

桜が咲いた!?

今の時期はそこら中で梅が咲いていますが、堀切菖蒲園の梅はほとんど散ってしまい、先週頃には随分さびしい雰囲気になっていました。


それでも、そろそろ桜の開花時期も近いので堀切菖蒲園へ行ってみると、蕾は大きくなって今にも花が開きそうでしたが、まだここのソメイヨシノは咲いていませんでした。

 

代わりといってはなんですが、ツバキやスズラン、木瓜などは咲いていました。

 

ツバキ

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スズラン

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木瓜

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木瓜というと、織田信長の家紋である織田木瓜を連想してしまいましたが、どうやら別物らしいですね。


そんな中、何週間も前にほぼ全ての花が散ってしまったはずの冬桜達が、また新しい花を咲かせていました。

 

冬桜

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雨上がりの冬桜

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今にも咲きそうな蕾

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私は花には詳しくないのでよく知らないのですが、冬桜って二度咲く花なんでしょうか?

007は二度死ぬみたいな…

 

古隅田川暗渠の工事再開!

半年くらい前、綾瀬駅前の駐輪場で工事が始まりました。

この駐輪場は古隅田川の暗渠の上にあり、足立区と葛飾区の境にもなっています。

 

その時には1ヶ月から2ヶ月程で終わると書いてあったように思いますが、屋根だけ撤去したあと放置され、そのまま約半年が過ぎました。

 

当時は何の工事なのかよく分からないまま中断してしまいましたが、最近になって工事が再開されてようやくその目的が分かりました。

どうやら駐輪場を緑道公園に作り替えるようです。

 

古隅田川は、場所によっては既に緑道公園になっている場所があります。

川幅がそこそこある場所ではカルガモが泳いでいたり、亀が甲羅干ししていたり、鯉が泳いでいたり。川が細い、又は水が少ない場所でも夏になると近所の子供がザリガニ釣りをしていたりと、なかなかの近所の憩いの場となっています。

 

今ではそんな様相の古隅田川ですが、徳川家康利根川東遷までは利根川の下流にあたったため非常に大きな河だったようで、かつてはその名が示すように、こちら側の方を本流として隅田川と呼んでいたようです。

中川以西の葛飾区内には、この古隅田川の支流が多数あります。今ではほとんど暗渠になっていますが、そんな暗渠の存在に気付くとこの辺り一帯がいかに水との縁が深いかが分かってきます。

同時に水害との縁も深いようですが…。

 

地下に埋もれたかつての大河の様子が見られるかもと期待してから約半年、ようやくちょっとだけ中が見えました。

と言っても、コンクリートの蓋を外した後で鉄板の蓋が置かれてしまったため、暗くてよく見えないのですが…。

 

現在の古隅田川はほとんどの場所が道路下の暗渠になっているか、緑道公園の下にあるため、どの程度の規模があるのか想像するのが難しかったのですが、駐輪場の幅とほぼ同規模でした。

深さまでは測れないので水量までは分かりませんが、少し下流にある綾瀬川合流地点までの親水公園の規模とほぼ同じ印象です。

 

写真撮りたかったですが、工事中の柵を乗り越える訳にもいかないので我慢我慢。

 

食べる分だけ汁をかける氏政

今年の大河ドラマ真田丸」は過去作に比べると独走というほどでは無いにしても順調に視聴率を維持しているらしいですね。
先週の日曜日は忙しくて見れなかったので昨日再放送を見ましたが、第1回のラスト、真田家周辺大名の紹介のシーンで北条氏政の食事のシーンが出ていた続き?が出ていました。

 

第1回のラストで登場した北条氏政は飯に汁をかけ足していましたが、これは甲陽軍艦で紹介されている北条氏政の「欠点」のエピソードです。
最初に見た時は思わず吹いてしまいましたが、大抵の場合北条氏政は北条家滅亡の契機を作った暗愚の大将として扱われることの多い人物なのに、真田丸ではおバカ扱いされていないどころか、威厳と狡猾さを併せ持つ脅威の大大名として描かれています。

 

近頃は歴史上の人物の再評価が盛んですが、やっぱり北条家はマイナーなんですかね?
南関東出身の私にしてみれば北条家は非常に身近な存在で、なぜ未だに北条家が大河ドラマにならないのか不思議でしょうがないのですが、北条氏政の再評価はまだまだ芳しくないように見えます。

 

そんな中、今回の真田丸では歴史好きにとっては有名なエピソードを逆手にとって、己の信念を楽しみながら貫き通すベテラン当主(既に隠居してますが、実質的には最高権威)ぶりを発揮しているようにも見えて、なんとも面白い展開になってきました。

 

ちなみに甲陽軍艦の一節とは、飯に汁を掛けて食べる事は毎日やっているはずなのに、いつまでたっても一度でかける量を見極められない、つまりは学習能力がないから北条家を維持できないと親に嘆かれたエピソードとして紹介されていたと思います。
(甲陽軍艦じゃなかったかもしれません…記憶違いならすみません…)

 

しかしそれは結果を見た後世の人間の評価であって、当時1万もの軍勢を集められれば脅威の大大名といわれる中(当時上杉景勝徳川家康が動員できる軍勢の数が大体その位)、同じ時代を生きる当事者達にしてみれば、3万とか4万もの軍勢を簡単に集められる超大大名は脅威以外の何者でもない。

大河ドラマで扱っている「天正壬午の乱」(織田信長死後の甲斐、信濃を巡る北条、上杉、徳川による争奪戦)では、他大名の動員数が上杉景勝徳川家康が1万前後あたり、真田を初めとるする信州の国人衆は数百人から数千人ぐらいに対して4万3千という圧倒的な兵数を動員したようです。異常です。


しかもこの北条氏政は、敵にとっては脅威の代表格ともいえる武田信玄上杉謙信と境を接して争っていた時代から、織田信長豊臣秀吉と対峙する時代へ移行するという、世の情勢が最悪の敵を巡ってめまぐるしく変わる時代で、ほんのちょっと足を踏み外せば自分だけでなく自分が抱える全ての部下とその関係者全員を不幸のどん底に巻き込みかねない環境を生き抜いてきた人物です。

しかも、そんな情勢の中でも北条氏政は北条家最大の版図を築いた人物でもあるので、必ずしもダメ当主とは呼べない、というよりむしろこれ程までに絶望的な隣国を相手にしてもジリ貧になるどころか積極的に攻勢に出ている辺り、まさに今回の大河ドラマの描きよう同様、狡猾で威厳のある当主だったのではないかと思うのです。

 

思うに、北条家が武田信玄上杉謙信に比べて評価され難いのは、北条家の版図が後に幕府の中心地となる徳川家康の本拠と重なるため、江戸時代に徳川家に遠慮して囃し立てられることが少なかったのが原因ではないかと個人的には感じています。

(江戸時代の評価は、意外と明治以降現在までもそのまま残っている例が多いようです。)

 

ちなみにドラマの中では「食べる分だけ汁をかけるのがワシのやり方」と言っていましたが、言ってみれば高級レストランでカレーとライスが別々に出てきた時に、カレーをちょっとずつライスにかけて食べるようなイメージですかね?
そう考えると、私はそういった食べ方はしないですが、なんとなく理解できるような気もしてきます。

 

ブログを始めて早1年・・・

このブログを開設したのは、ちょうど1年前の今日、3月3日でした。
ひな祭りだからというのは関係ありません。

たいした志もなく始まったこのブログですが、いつも3日坊主の私にしては長く続きました。
といっても、現在までの記事数は50にみたないので、週1回よりちょっと少ないぐらいのペース・・・
少ない・・・

 

ひな祭りは桃の節句とも言いますが、桃という字は木偏に兆と書くことから、子だくさんを意味するとも言います。
私のブログは3月3日生まれにも関わらず記(木)事数が少ないので、さしずめ杪(こずえ)といった所でしょうか?
桃の節句にあやかって始めたわけではありませんが・・・

 

こんな主義主張もない、誰かの為になるわけでもないブログが3日坊主の私でも1年もの間続けられたのは、たぶん週1回(弱)ペースののんびりしたスタンスだからだと思います。

今後も誰の役にも立たない記事が大半を占めるかと思いますが、自分にとって楽しい世界がこのブログ内だけでも構築できたらいいなどと都合のいい事を思っています。