ドラマ「JIN-仁」より「樹木谷」

昨日ドラマ「JIN-仁」の1話の再放送をやっていました。

私はドラマを見ると次の話も見たくなってしまうので、次の話を見られる保証が無い時はあまり見ないのですが、そこで登場する橘恭太郎が自宅がある場所を「湯島四丁目裏通り樹木谷に住む」と言っていたのが気になったのでそのまま全部見てしまいました。

と言うのも、このドラマを見る直前に「湯島の樹木谷」は「地獄谷とも呼ばれた」と言うのを知ったばかりだったので、せっかくだから原作の漫画を交えて、この辺りのシーンに出ていた樹木谷と橘恭太郎が斬り合いをしていた場所に関連することをちょっと調べてみました。

現在は湯島周辺に樹木谷と呼ばれる場所は無いが、東京都文京区湯島1丁目の7番地と8番地の境に樹木谷坂と呼ばれる坂があり、この坂を南側に上ると東京医科歯科大学、北に向かって坂を下ると蔵前橋通りの新妻恋坂に出ます。

縄文時代には、この新嬬恋坂まで海があったそうで、ここから東側は全部海の底だったようです。今では想像もつきません・・・

その新妻恋坂を東に下った先は現在は日比谷線の末広町駅に行き着きます。ここは秋葉原と上野を結ぶ中央通りの内で、秋葉原歩行者天国の北端にあたります。

一本手前のセブンイレブンの角を南に曲がった先に、坦々麺のうまい店があったんですが、今はどうなってるんでしょう?あの辺りは店の入れ替わりが激しいから今でもやってるかどうか・・・

ドラマ「JIN-仁」の時代は幕末でペリー来航から10年、文久二年(1862年)と言うことなので、まずはその4年前の安政四年(1858年)の地図を参考に周辺の地理を追ってみます。

この頃の地図を見ると防衛の観点からか、現在のようにメイン通りが一直線に続くような場所が江戸付近にはほとんど無く、さっきの中央通りの南端も今の万世橋より西側の昌平橋に近く、橋を北へ渡ってすぐの場所と今の上野広小路(当時は下谷広小路と呼んだらしい)手前からみずほ銀行あたりの2箇所で行き当たりがあり、直角に曲がりながら北方の上野寛永寺の方向に向かうようなルートになっています。

 

現在では新妻恋坂を下る途中に神田明神裏参道がありますが、安政5年(1858年)当時の地図を見ると、こちらもやはり防衛の観点からなのか一直線に上る坂自体が存在しない。新嬬恋坂と思しき坂と神田明神裏参道も接しておらず、間に武家屋敷が並んでいます。それに近い坂も別にあるが、こちらも神田明神とは接していない。 どうやら当時は、神田明神裏参道の崖のような階段を下ったところに武家の屋敷が宛がわれていたのかもしれません。

ちなみに以前この坂を通った折、神田明神裏参道脇にうなぎ屋さんがあるのを見て、同じように平将門公を祭る国王神社付近ではうなぎを食べないと聞いたことを思い出したですが、神田明神付近ではあまり関係ないんですかね?どうなんでしょう?

新嬬恋坂を下りきると現在の秋葉原駅周辺に出ます。

この辺りは神田明神の東側にあたり、こちらもやはり勾配のきつい傾斜の下になります。

神田明神下と言えば、銭形平次が住んだ場所として知られていますね。当然このあたりは町人が数多くの店を出しているように思えるのですが、今回の話とはずれてしまいそうなので一旦ここで終了します。

 

今日は樹木谷坂自体にも全く迫れないまま終わりますがご容赦を。

続きは明日にでも・・・