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ドラマ「JIN-仁」より「樹木谷」その2

 昨日は樹木谷そのものより、その北東側の上野・秋葉原方面の話に終始してしまいましたので、今日は樹木谷坂と、南側、西側に焦点を当ててみたいと思います。

 

樹木谷坂の南側、坂を上りきった場所にある現在東京医科歯科大学となっている敷地は、元々湯島聖堂の一部だったようなので、当時の橘恭太郎宅も、樹木谷坂を登ると湯島聖堂付近に着いたのだと思われます。

樹木谷坂の標識には「徳川家康が江戸入府した当時は、この坂下一帯の谷は、樹木が繁茂していた。その樹木谷に通ずる坂ということで、樹木谷の名が生まれた。」とあります。

つまり今の新嬬恋坂一帯は鬱蒼と茂る森だったということで、ここを樹木谷と呼んでいたようですね。

現在湯島聖堂神田明神の間を通る本郷通りを当時の地図に照らし合わせると、樹木谷坂と接した辺りの西側に「四丁目」と書かれています。橘恭太郎は自宅場所を「湯島四丁目裏通り 樹木谷に住む」と言っているので、この通りの裏側に当たる、現在のおりがみ会館から西側のビル群のどれかが橘恭太郎宅のあった場所と思います。

ちなみに更に遡って江戸初期の延宝八年(1680年)徳川綱吉が五代将軍に就任した当時の地図を見ると、新嬬恋坂付近にはやはり一直線にのぼる道が無く、幕末の頃よりも更に入り組んでいたようですが、このころの地図を見ると安政四年(1858年)の地図に比べて秩序だった町割が感じられず、防衛上の理由と言うより計画性が無く町が出来ていってしまったようにも感じられますので、江戸末期までの間で整備されていったのだとすれば、橘恭太郎の時代には既に「樹木谷」と言う名前の由来となった往時を偲ぶ痕跡は少なかったように思います。

(この数年前には有名な振袖火事こと明暦の大火があり、この辺りはその被害をモロに受けているようで、そういう意味でも江戸末期には「樹木谷」と呼ばれた当時の痕跡は地形以外には残っていないと考えて間違いないでしょう。)

なお樹木谷坂の標識には続けて「尭恵法印の「北国紀行」のなかに「文明19年(1487)正月の末、武蔵野の東の界・・・ならびに湯島といふ所あり。古松遥かにめぐりて、しめの内に武蔵野々遠望かけたるに、寒村の道すがら野梅盛に薫ず」とあります。天神ゆかりの梅の花が咲く湯島神社の周辺のようすである。」ともあります。

現在菅原道真公を祭る湯島天神は、公式HPによると雄略天皇二年(458)一月、勅命により天之手力雄命を奉斎して創建されたのが始まりとかで(そんなに古いの?)、その後正平十年(1355)二月湯島の郷民が菅原道真公の御偉徳を慕い文道の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉祀したとか。(正平十年(1355)は南北朝真っ只中で、元号南朝方のものですね。この頃北朝では文和という元号を使っているので、当時の湯島神社、もしくはこのHPが参照した資料を書かれた方は南朝側と何かしらの関わりがあったのでしょうか?) 

そして文明10年(1478)十月に、太田道灌これを再建とあります。

上記の標識には「尭恵法印の「北国紀行」のなかに「文明19年(1487)正月の末・・・」とありますので、太田道灌が再建してすぐってことになりますね。

太田道灌の時代には、樹木谷には松が茂り、梅が香る場所だったのでしょうか?

古松、野梅と言う表現から、太田道灌の時代に梅や松を植林したとは考えにくいので、太田道灌が再建した当時には樹木谷には松や梅が生い茂っていたのかもしれません。

現在の湯島天神から樹木谷坂までは、谷一つ山一つ超える距離なので(おおげさですかね?)とても湯島天神の梅の香りが届くとは思えないのです・・・

むしろ太田道灌の時代には湯島天神の境内が樹木谷坂近くまであったのか、樹木谷坂の向かいにある横見坂(元はこちらも樹木谷坂と呼んだとか呼ばないとか・・・)の頂上では湯島天神の梅の香りが届いたのでしょうか?

現在ビルや住宅しか残らないこの地では往時を偲ぶ術がないのが悔やまれます・・・

 

ちなみに当時樹木谷と呼ばれていたと思われる現在の新嬬恋坂ですが、その名の由来は現在の新嬬恋坂の一本北側にある坂の途中に鎮座する「嬬恋神社」に続く坂だからだそうです。

こちらの神社は今でも健在ですので、興味を持たれた方は橘恭太郎宅跡地の見学がてら一度参拝されては如何でしょうか。

 

もうひとつ調べたい「橘恭太郎が斬り合いをしていた場所」については、また日を改めて・・・