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川を渡る日

 

7月7日と言えば七夕。
ひな祭り、こどもの日などと並ぶ五節句の一つですね。

 

1年に1度だけ、天の川に隔たれた牽牛織女の二星が出会う日
と言うことで、


矢切の渡し(葛飾側)

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運命・・・いや宿命のライバルがここを挟んで対決した国府台の戦い。

またか・・・とか言わないで・・・。


古くは太日川・太日河とよばれた江戸川を手漕ぎの小船で渡す、都内に現存する渡し場としては唯一の渡しです。

北条軍の先陣、遠山・富永らは太日川の「からめきの瀬」を挟んで里見軍と対峙しました。

 

葛飾側の船着場から対岸を臨む

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「瀬」とは流れが速く水深が浅い場所のことを指すそうなのですが、ここ矢切の渡しは当地の案内板によると、「古くは雨の少ない時期に浅瀬となり、対岸に歩いて渡れた」そうで、ここ矢切の渡しを「からめき川」と呼ばれたと説明しています。

 

対岸(千葉県側)から臨む

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矢切の渡し(千葉県側)

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ここからは、東南の国府台城までは直線で1Kmぐらいで、真東には野菊の墓文学碑があり、こちらも直線で1Kmほどです。
野菊の墓文学碑がある場所には国府台合戦に関する案内板があるらしいですがまだ見に行けていません。

この案内板がある野菊の墓文学碑の場所は、矢切の渡しからは真東にほぼ一直線の場所で少し高台にあります。
両軍は太日川を矢切の渡し辺りにあった浅瀬を挟んで対峙したそうですが、里見軍は一旦後方に退いてみせたと言うことです。
里見軍の後方とは野菊の墓文学碑がある高台がある場所とみて良さそうです。
里見軍を追った遠山・富永ら北条軍の先陣は、台地の坂を上るところで反撃に遭い討死しました。


この時北条軍では里見軍の兵数が少ないと見ていたらしい(この戦いを始めるにあたって北条家が兵を集めるために送った文書の中に「房州衆五六百騎(中略)岩付へ兵糧送候」とある)ので、侮りがあったか、むしろ予想外に相手が多くて判断を誤ったか、もっと別の理由があったか、詳細は不明ながら想像を膨らませてくれます。

 

なおこの時遠山・富永両氏は「太田康資の裏切りを見抜けず、その責任を取って」討ち死にしたといった話がありますが、
私はこれを後世作られた美談の一つではないかと考えています。
二人は江戸城を守る城代で、江戸城には城主が存在しないため事実上江戸城のトップにあたります。
徳川家康入府以前の江戸はド田舎だったと言われていますが、それは江戸時代の江戸と比べた場合の話であって、人も住まない、農作地もない荒地だったわけではありません。
むしろ下総方面などの各前線基地の中心的拠点にあたるので、二人はかなり重要なポストを任されていることになります。
二人揃って自分勝手に討ち死にすれば下総方面軍の3人いた指揮官(もう一人の太田康資は国府台合戦が始まる前に離反している。)が、短期間に一人もいなくなってしまい大きな混乱を招くため、逆に主君である北条家に迷惑がかかることになります。
少し穿った見方をすれば、徳川家康の重臣石川数正豊臣秀吉に寝返った時、徳川家では大幅な軍制改革が行われた様に、3人の城代の内の一人が離反したことで江戸城の内情が敵方に漏れてしまう可能性があり、その対策の為この頃の江戸城では軍制の改革を断行していると思われます。

改革を行うとなれば、遠山・富永両氏以外の人物が絡んでくると思われるので、両氏はこの改革により居場所を失うなど、立場が危うくなった可能性も考えられます。
両氏がこの状況を打破するためには、多少無理な作戦であっても強行せざるを得ない状況にあり、結果命を落とすことになったのではないか、なんてことも考えるべきではないかと思います。

 

なお、先日江戸川を訪れた時の印象は非常に大きな川で、多少水位が減ったところで歩いて渡れそうには見えませんでした。

というか、矢切の渡しの船着場には水深6mにもおよぶと書いてありました。

 

船着場の注意書き

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同じような水量を誇る、私にとってはより馴染み深い荒川放水路の方を見ると、天気の状況によって多少の水面の上下はあるものの、歩いて渡れるほどに水位が下がることなんてとても信じられません。
元々カスリーン台風を代表するような川の大規模氾濫に悩まされた土地だからこそ、様々な技術を駆使して川の向きを変え、水深を下げ、ダムで制御し、水位を増えすぎず、減りすぎずを維持できるようになった結果なんでしょうね。

ここ数十年この辺りで大きな水害が無いのもその恩恵だと思うと、行政ってホントに大事なものなんだなと感じます。

その一方、そう考えると今の川の状態を見ても往時を忍ぶのは難しそうだとも感じます・・・。