再戦!国府台城!!

再び国府台城へ行きました。

今回は城内ではなく、周辺地域へ行きました。

 

まずは野菊の墓文学碑

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この階段を登ったところがそうらしいのですが、小説を呼んだことが無いのでよくわかりませんでした。

写真の階段左側にある柱には「永禄古戦場跡」と書いてありました。

その下に「永禄七年」とかなんとか書いてあったので、第二次国府台合戦のことを書いてあると思って間違いありません。

この野菊の墓文学碑は矢切の渡しの真東にあり、ここに至るまではそこそこ距離がありますが、途中の平地は千人単位の部隊同士が展開、戦闘するには都合がよさそうに見えました。(ただの想像です。真に受けないでください。)

しかし、平地と台地のキワにあたるこの場所に至るにはそこそこきつい勾配の坂を登ってきました。

今回は自転車で訪れたのですが、登り切るには立ちこぎが必須なほどです。

しかしここを登ってみた印象としては、台地に至るまでの坂が非常に狭いということでした。(狭いのは道幅ではなく、標高の最高点から最低点までの距離です。)

実際にこの地を訪れると、第二次国府台合戦で討ち死にしたという遠山・富永両氏が、その身分を省みずにこの狭い空間に進んで入り込み、激戦の末に討たれたということがどうしても不思議で、より一層疑問符が拭えなくなりました。

というのも、江戸川からこの坂まで非常に長い、広い平地があるのです。

 

矢切の渡し付近から見た野菊の墓方面

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奥の緑が茂る場所が野菊の墓がある台地です。

 

かつて江戸川は渡良瀬川の下流にあり、今の江戸川に注いでいる水量もまるで違って非常に多かったと思われ、更に矢切の渡しといえば昔は水量が減った時は歩いて渡れるほどだったということは、川は非常に浅くその分非常に広くなっていたと思われるので、今から500年も前におきた合戦の話となれば、この広い平地も当時と同じと思うわけにはいきませんが、それでも非常に長い距離があります。

実際に自転車で行ってみると、都心の1駅分以上、丸の内線なら新宿から新宿三丁目間の2倍から3倍以上の距離を感じます。(人がいない分移動は楽ですが・・・)

今の距離なら1万人ぐらいの部隊が河川から台地までの間に展開していたとしても何の疑問も持たないほど広い平地なので、川の位置が多少変わったところで数千人の部隊なら平地に充分展開できたのではないかと思います。

 

そう考えると、江戸城代である遠山・富永両氏がわざわざ狭い坂に部隊を展開させた上に自分たちまでその坂を登っていたというのはなんとも不自然に感じられます。

二人が討ち死にした場所は大坂と呼ばれる場所と言うことなので、もし坂のある場所を正しい死に場所とするのであれば、坂を昇りきった場所に陣を張り、台地の向こう側から反撃してきた里見軍の猛攻が予想外に強かったために坂を下りて態勢を立て直そうとして逃げ切れずに混乱に陥り討たれたか、坂の下に大軍を展開させたものの坂に誘い込まれて部隊が前面だけに集中させられてしまい、付近の別の坂から里見軍の別働隊が坂下に展開する両氏の本陣を襲ったか、と言ったところが可能性としてありえそうな気がしました。(これも勝手な想像です。決して真に受けないようにしてください。)

 

その後国府台城の方まで遠征して以前とは違う城の裏側を散策したのですが、とにかく坂がきつかったのと尋常じゃない暑さで到着した頃にはすでに何かする気にはなれませんでした。

こんなに暑い日はむやみに散策なんてするものではないですね。顔がヒリヒリする・・・