秋の堀切菖蒲園

昨日はせっかくの3連休最後の日。

寒露も過ぎて菊の花がどこかに咲いているかも…
ということで、葛飾の菊を探しに水元公園まで行こうと思ったのですが、時間の調整がうまくいかずに断念。
もう近所の堀切菖蒲園でいいかなって思い立ち、そもそも菊があるかどうかも調べずに行ってきました。

 

しかし、実際に行ってみると、菊どころかそもそも花なんてほとんど咲いていませんでした。
まあ当然ですよね。「菖蒲」園なわけだし…

 

といっても、まったく花が無いわけではなく、ごく僅かにですが、咲いていた花を見てきました。

 

そんな数少ない花の中に、冬桜なるものがありました。

冬桜

f:id:space-zero:20151013235327j:plain

なんでも初冬に咲く桜らしく、確かにちょっとだけ咲いていました。

写真右下に案内板がありますが、この冬桜、群馬県鬼石町からはるばるやってきたそうです。

この前の大河ドラマで舞台が群馬に移ったばかりですが、鬼石町から遠いみたいなので特に関係はなさそうです。

 

ちょっとだけ咲いてた桜

f:id:space-zero:20151013235507j:plain

 まだ花は全然咲いていませんでしたが、つぼみは沢山あったので、来週、再来週辺りが見頃なのかもしれません。

 

実は桜の原種はヒマラヤの方という説があり、元々秋に花が咲く植物だったらしく、中国を経由して日本に辿り着いた前後で春に咲く品種が生まれ、現在のように春の花になったようです。

 

さすがに今の時期だと、見に来ている人も少なくてゆっくり(花なんてほぼ咲いていないところを)観賞してきました。
すると、堀切に初めて菖蒲が持ち込まれた時期について書かれた案内板がありました。
要約すると以下の2つの説があるようです。

 

室町時代に堀切村の地頭久保寺胤夫が家臣の宮田将監に命じて、奥州から花菖蒲を取り寄せた
・江戸時代に堀切村の百姓伊左衛門(小高氏)が花菖蒲に興味を持ち、数人の旗本から貰って繁殖させた

 

正直なところ、個人的にはどっちでもいいんですが、室町時代とは言え「地頭」といえば15世紀ごろには衰退しているはずの身分なので、そうなると、堀切の菖蒲は500年ぐらいの歴史があることになります。

 

せっかくなので「地頭久保寺氏」について調べてみました。が…
「久保寺」姓が、堀切か葛飾に結びつかないかとネットで調べてみると、どのサイトを見ても上の案内板の内容をそのまま書いたものばかりで、当人の記事は全然見当たりません。
仕方ないので図書館まで足を伸ばしたのですが、何から調べればいいのかも分からず、結局何の成果も得られません…

 

 それでもしつこく探していたところ、少し気になるものが一つだけ見つかりました。
実は戦国時代に北条家の支配下で、同じ葛飾区内にあったと言われる葛西城の在番を務めた人物に会田氏と並んで窪寺大蔵丞という人物の名前が。

何が気になったのかと言えば、どちらも読みは「くぼでら」。

古い資料だと漢字の間違いなんてよくある話なので、もうこの窪寺氏について調べることにしました。

 

「小田原衆所領役帳」によると、窪寺氏の所領は「猿股」という場所で、今の水元辺り。
同じ葛飾区内とは言え結構遠い。やっぱり関係ないのかな?

知行地は49貫ということなので、それほど大きな家ではないようです。
しかし、会田中務丞と共に葛西城の在番を務めていたらしく、永禄12年には2人が守る葛西城に北条氏が援軍を送った記録が残っています。

他にも何か無いかと探しましたが、タイムオーバーにより断念。
昨日は丸一日ほぼ成果無しでした…。

 

ただ、「小田原衆所領役帳」にもう一人だけ気になる人物がいました。
堀切に知行地を持っていた「大胡」という人物。

後に「牛込勝行」と改名したそうですが、この人物の祖父の代に上野国の大胡、現在の群馬県勢多郡大胡町から移り住んだようです。


牛込勝行と冬桜。同じ群馬からはるばる遠い堀切の地へ。
なんとも不思議な縁を感じました。


…と言っても、鬼石町大胡町はそこまで近く無いみたいですが…